昭和52年09月03日 朝の御理解



 御理解 第62節
 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」

 「わが身の上におかげを受けて人を助けてやれ」というところまでは普通一般そんな感じが致します。「神信心も手習いも同じこと、一段一段進んで行くのじゃ」と、「俄かには先生にはなれん」、ここはいよいよ本気で信心を頂き直さなければ分からないところだと思います。お願いを致します。初めて参ってくる。おかげを受けます。本当に金光様の信心はあらたかだと。
 今宮崎辺りからあんなに沢山お参りしてくるようになりましたのも、やはりおかげを受けた人達が、本当におかげと言わずにはおれないという、おかげを受けた人達が、次々と人を勧めてお参りをしてくる。そしてそこに人が、いうなら人間が助かる手立てを段々作っていくんですね。これは東京から沢山の資本を入れて、何ですか、牛や馬の放牧をして、何か餌を作る会社か何かを始められたんです。
 所がどっこい行き詰まってしまって、沢山の借金を負うてどうにも出来ない。そこでもう止めようかという寸前の所を、宮崎の川添という方がお話をして導いて見えた。それが丁度月末の頃でしたが、だから帰り道にその売り先とかまた色々仕入れなければならないところやらに、その高千穂回りでズーッと帰りに寄っていくと言う事だった。その寄っていかれての話の具合というものを横で聞いておって、川添さんがです。
 もう神様の働きとはこういうものだろうかと、もう身の縮む思いで、商売をして行かれよるその場に何回も立会ってですね、帰り道々もう全部、それが今までとは、今までこの人が言うとられたのは嘘だろうかと思う位に、順調におかげを頂いて、もうどうにもいけないと言うところが、皆おかげになって参りました。そしてこの一日には又夫婦でお礼参りをしてきとります。
 そしてお願いをして参りまして昨日また、その大変おかげを頂いてというお礼のお届けと、また主人と代わられまして電話がございましたが、福岡に東京時代に大変父が、お世話をしたか何かという方が、自分が宮崎に来て居るということを電話をかけてきて、「大変な仕事だから、もしお金が要る時には、大した事は出来んけれども、あのどうぞ遠慮なしに話に来て下さいという電話がかかったというわけなんです。
 それから次には何とか、所謂国家から低利で買わして貰う、その手立てが又付いていきよるから、今からそちらに又やらせて頂くと、もうそれこそ手の平を返す様なおかげですよね。もう止めようかもう止めようかが、もうその希望が満ち溢れてきた。しかも是だけ、今藁がないからいろんな物が作られないそうですね。それが思いがけない所から、どんどん入ってくると言った様なおかげ、もう帰り道からそういうおかげを頂いた。そして月末に参ってきて、今日が三日ですから、まあいうなら一週間余りの話なんです。
 それに金銭の上にでもそういう凄まじい。宮崎のおかげは皆そんな感じですね。お導きをする人が、そういうおかげを頂いておりますから、初めて参ってきて、夫婦がおかげを頂くとは違いますね。もう初めの間は、もうこげん遠かとこ無理を言われるけんでやっと参ってきたのが、お参をしてお取次を頂いて、お話を頂いておる内に、もうそれこそ目が輝いてくるです、夫婦の者が。そしてそういうおかげを頂いておる。だから、そういうところがですね。
 我が身の上にまずおかげを受けて、人にも話をして人を助けていけというのが、今宮崎辺り宮崎に限らん、合楽で一般お参り、次から次と毎日新しい、いうならば求信の人ですね。いわゆるおかげを求めてくる人達がおかげを頂いておりますのは、我が身の上におかげを頂いた人達が話をしてからのおかげであります。だから、そういうおかげ。いわゆる示現活動に参画すると言う事でございましょうね。「神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでいくのじや」と。
 「俄かに先生にはなれんぞ」と。ここになってくるともう五十年信心しとるから、ていげえ信心の一段一段上がってござる、もう五十段も上がってござるという感じがするけれども、一つも上がっていないと言う事実がある事です。もう私は十年信心しよるけん、信心ももう十段生かというとね、いつまでもおかげおかげのところで、いつもぐるぐる回っておると言った様ないっちょん進歩していない、信心が進んでない。
 だから私は今日は、ここんところからが本当の信心であり、ここんところが本当に自分自身が助かるのであり、先生と言う事は、愈々人が助かることのための、いうならば芯になれるほどしの力というか、お徳という。頂くのは一段一段上がって行く。行っているかいないか、という確かめながらの信心を、言うのだと私は思います。先日からこの修行生の方達に召集令状が来た。その一人でも「いいえ私は待って下さい。」と言う者は一人もいなかった。
 もう二時間しか時間がないというのに、皆がそれに打ち込んで時間に遅れん様に行かんならんといった様な勢いを見せる様子をお夢の中に頂いて、ああ家の修行生は一ちょん信心は出来ん。修行も出来ん。こげなことで大体合楽理念をマスターしようと思うとっとじゃろうか、合楽理念を本当に自分のものにしようと考えとるとじゃろうかと。これはまあ私の僻みであって、実際は、いつ親先生が「どこどこに布教に行け」と、もし神様の御神命が下ったらです。
 もう今、学院に行っておる生徒達でも合楽の学院生は、もう「応」と答えられるだろうと私は思いますね。それがどう言う所から、そう言う事になっておるかというと、教師になる前に、ちょっと一つの誓約を入れなければならない。もう身も心も神様に捧げますという一札を入れてある。もうそれ以前に、いうならば一生をお道の教師として、おかげを頂こうという、その一つの一心発起というものが、もう既に先生になっておるのです。ですから何年かからなければならんと言う事じゃないです。
 もう全身全霊を神様あなたに捧げます、と言っておるのですからね。ですから神様が、だからお話は出来ない、徳も力も頂いてない、信心の何かというなら詳しい教学的なことやらは分からないに致しましても、なら金光大神覚えと、金光大神をまあだ一遍通り読みこなしてもいないと例えば致しましても、あなたのために全身全霊を捧げますという一札が入れてあり、自分自身もそうである。
 初めの間はそうではなかったかもしれない。もう自分は行き詰まって、金光様の先生になっとんならにゃ、という者も沢山ありましょう。まあしだごだ、いうなら仕様ことなしと言う事もありましょう。けれども不思議にです。お道の教師を志して頂くからには、なら本気で信心を求めなければならない。いや求めざるを得ない働きが起きてくると言う事です。ですから信心は初めからそう言う事だったら、とても金光様の先生にはなれなかったかも知れません。
 けれども金光様の先生という看板を掛けた途端から、いうならば自分は神様に身も心も捧げてあるということが、神様もその気になってお育て下さるのです。なら今修行しとる方達がです。ほりゃとても難しかけん、とてもおどん達は出来んとは思わない。難しうなれば難しうなるほど、なおさら信心が有難うなっていくという事実があることです。だから一心発起信心本気で、信心を頂こうという頂き方にならなければ、信心は絶対、五十年信心しても進みはしませんです。
 そしてどう言う事が分かるかというとです信心、真心、神心とこう言われますが、信心とは信ずる心。どこ何を信ずるかというと、勿論神様の働きを信ずる訳ですけれども、一切が神愛と、例えばこうやって悟らせて頂くわけですけども、私はこの一切が神愛と言う事を簡単に言う事じゃないと思うですね。例えば難儀な問題が起って来る。その難儀な問題をです、愈々神愛と受け取った時点から本当のおかげが展開してくるのであって、信心しておるのにどうしてこんな事がと、その辺の所でぐずぐずしておったらね。
 いわばそれは難儀は難儀に終わってしまうです。またそれで挫折する人も沢山出てくるわけです。やはり難儀は難儀だと、なら信心しとっても雨も降りゃ風も吹くと言う事なんです。だから信心の傘というものを使わなかったら、やはり濡れしぼたれになってしまうと言う事です。降ってきた時に愈々、なら信心の傘をささして頂いて、降るけれども濡れんで済む。
 大風が吹いてきたというても、神様任せにならせて頂くから、いうならばもうままよという心にならせて頂くから、これは折れんで済むというおかげが受けられるのであって、ここにどうしてこんな難儀がと思うたら、もう心は折れてしまうのです。だから信心はそこで挫折するんです。ですから一切神愛と言う事は大変に難しいことです。だからそこを頂き抜いて、降ったら傘を吹いたら風任せの、いうなら柳が風に逆らわないために折れないようにです、そこの信心が把握できた時に、初めて神愛だったと。
 私どもの過去においての様々な人間最大のいうなら難儀に、次から次と直面しましたけれども、その一つ一つがすべてが神愛であったなと。これは私が一生一代のことを思うてそれを思うです。生まれて六十日ぶりに火の海の中にあったと言う様な事も、あぁあれは大変なおかげであったと、今にして言えることであってです、過去の一切が生きてくるほどしの生き方を身に付けた時に、いわば神愛と言う事が言えれる。それをなら道の教師を志して頂く、これは外とは申しません。
 合楽で神縁を頂いて、合楽でお道の教師でもならせて頂こうと意欲した人達の上には必ず、そういう働きが起こってくるです。昨日ある女の修行生がお届に来ました。何か余程、泣いてから言うけん一ちょん聞こえんとです。人間関係かなんかじゃなかったかとこう思うんです。それで私は御神米に三代金光様のお書き下げを頂いておる「しんじんのけいこ」と平がなで書いてやった。もう不思議に、ああこれで稽古をさせて頂くんだと思うと、元気が出るから不思議ですね。内容は分かりません。
 どんな事か知らんけれども、信心の稽古だよと。ならお道の教師をさして頂く者がそれこそいよいよ信心の稽古をせなきゃならんことは勿論ですけれども、ならそれによって信心の稽古をさせて頂くんだよと頂いた時に生き生きとしてくる。「信心」とは、いうなら信ずる心、それはどう言う事かと言うと、それを具体的に言うと死んでもおかげと言う事なのでございますね。
 ままよという心を出せと。「ままよとは死んでもままよのことぞ」と。そういう心を起こせばおかげを受けられるとは書いちゃない。十分の徳を受けようと思えばと言うておられますね。本当に神様に任せ切る。必ずおかげになる、そうじゃない。だから、それを煎じ詰めていくと、死んでもおかげと、いうならば分からせて頂いて初めて信心と言う事が言えます。次に「真心」まごころです。
 一生懸命こうやって御用さしてもらいよるけれども、それがもう無条件、しかもそれを一生懸命、一生をかけて真心の奉仕を、いうなら人が助かることのための奉仕に専念させて頂くというのですから、力がつかん筈がない。そこから神心がまた生まれてくるようなものなんです。「神信心も手習いも同じこと」と言う事から今日は難しい。難しいというよりも、俄かに先生にはなれんぞと。先生と言う事を本当に人を取次ぎ助けられるだけの力を受けてと言う事。
 信心しておかげを受けたらとこう言っておられます。我が身の上におかげを受けてとこう言っておられますけれども、我が身の上におかげを受けてと言う事を、愈々本当の我が身の上におかげを受けてということは、一段一段上がって行く信心を頂いておらなければ、我が身の上におかげを受けると言う事ではない。我が身の上に信心が一段一段、いうならば貫かれると同時に、段が進んでいくというそこからね。いうなら人が本当の意味で助けられるようなおかげになってくるし、自分自身も助かる。
 いうならあの世にも持って行けれるお徳が受けられると言う事でございますね。我が身の上におかげを受けて、そして人を助けてやれと言う事をね。今の合楽理念に催されて、そういう示現活動の働きに催されて、今沢山合楽に合楽にと皆がお参してくるのは、ただ成程、神様のおかげといわなければおられない。御利益を受けていうならおかげを受けて、そしてそれを人に伝えていく。そこにまた人が助かるという。これはどこまでも本当の助かりの手立てであり手掛かりだと言う事なんです
 。その手掛かりを得てです、いよいよ信心を進めていくと言う事のためには、それこそ修行生の方達、先生方じゃないですけども、一生を全身全霊を向けて、神様へ心を進ませて頂いてね。本気で信心の稽古をさせて頂きますという様な一札が入れられるような信心からしか進んでこないということです。本当の信心をいうなら求めて参りますと、やはり苦しい時は苦しい。泣き出すごと苦しいけれども、それが信心の稽古と見易う見易う言うて頂いただけで、ほんに神様は、これで稽古させて下さるんじゃった。
 そういう稽古をするからね。一段一段信心が出来ていくのですね。信心させて頂いて最高の悟りというならばです。一切がおかげと言う事ですけれども、それを煎じ詰めて言うと死んでもおかげであるという実感です。そういう信心そこまで神様が信じられる所からです。神様のおかげの道はもう愈々広がりに広がって行く事になります。今日はここの所をいうならば見易う、いうならばおかげを受けて人を助けてやる。いや事実は自分自身が真から本当に助かって人を助けてやる。それを二つに分けて聞いて頂きましたね。
   どうぞ。